前橋地方裁判所 昭和32年(わ)358号 判決 1958年3月05日
被告人 中島尚一
主文
被告人を懲役参年に処す。
但し本裁判確定の日より五年間右刑の執行を猶予する。
右執行猶予期間中被告人を保護観察に付する。
領置にかかる肉切庖丁一挺(昭和三二年領第一一四号の五)は、これを没収する。
理由
罪となるべき事実
被告人は昭和三二年四月頃、太田市石橋(旧強戸村)の「寿」という飲食店に勤めていた女給小林絹子(当時二九年)と知合となり、同年六月頃にはお互に将来結婚しようという口約束を交すほどまで懇ろな仲になつたが、絹子が親達に右の結婚について相談したところ、反対され、また、絹子自身も自分の年令が被告人よりもはるかに上であることを反省した結果、お互の幸福のためには、この結婚話は解消するに如くはないと考えるに至り、昭和三二年九月頃より再三被告人に対して右の結婚話の解消を求め、同月末頃には、お互がしばらくの間顏を合わせないでいた方がよいということで、勤先を群馬県佐波郡境町大字境南町乙三九三番地飲食店「均一食堂」こと白石ミツ方に変え同年一〇月二〇日頃からは、一時その行方をくらましていたほどであつたが、このことは絹子との結婚を諦め切れない被告人に対して何の効果もないばかりか、却つて被告人の絹子への思慕は益々募ると共に、被告人は絹子が自分を裏切つて他の男と一緒になろうとしているのではないかとの疑を抱くようになり、果ては、同女の本心を問いただし、もし不幸にして右の疑が事実であつた場合には、絹子を殺害して自らも自殺するほかはないという考えを持つに至り、同月二六日太田市大門の金物屋で刃渡り約一〇糎のペテイ・ナイフと称する肉切庖丁一挺を買求め、これを携帯して絹子の所在を捜していたが、翌二七日午後五時頃ようやく前記「均一食堂」方で同女を発見、その意向を問いただそうとしたところ、絹子は極力被告人と顏を合わせるのを避けて奥の一〇畳北の間で男の客を相手にしており、また同店の主人白石ミツも被告人が絹子に近ずかないよう邪魔だてをしたので、被告人は、奥にいる客こそ絹子の新しい男なのではないかとの疑念を持つたけれどもとにかく今は相手もいることだし、真相の究明は後日出直してした方がよいと考え、午後五時半頃一たん帰宅しようとして、絹子に対し、同食堂ホールの上りはなのところで、「お前には一〇万円使つてあるんだ。」といや味の捨ぜりふを残して行きかけたところ、奥から出て来た同女に、「お金なんか貰つてありません。」と罵倒されたため逆上し、もはやこれまでと、所携のペテイ・ナイフを取出すや、これを右手に逆手に持つて、最初同女の肩部を刺し、ついで、悲鳴をあげて奥へ逃げる同女を追いながらその頸部、肩部、上腕部等を合計一〇回位続けさまに突刺し、或は切付け、因つて同女に対し、治療約一〇日間を要する頭部、額部、両頸部、両肩部、右上腕部、右前腕部、両手部切創及刺創の傷害を負わせたが、その間同女がおかあさんと叫んで救助を求めたりその場から逃げようと努力する等の抵抗により傷が急所を外れたため、殺害の目的を遂げなかつたものである。
(証拠の標目)(略)
(刑事訴訟法第三三五条第二項の判断)
弁護人は、被告人が本件殺害実行行為の終了前に被害者小林絹子の流血を見て憐憫の情を生じ自らの意思で殺害の意思を放棄して殺害の実行行為を中止したものであるから、中止未遂であると主張する。然し、被告人の判示殺害の実行行為は、それ自体で小林絹子に対し死の結果を発生させる危険性を有するものであつたと認められるから、本件殺害の実行行為は既に終了したものと解すべきである。即ち本件犯行は実行未遂と解する。従つて、本件殺害の実行行為がまだ終了していないこと即ち着手未遂を前提とする右中止未遂の主張は、被告人において憐憫の情を生じたると否とを問はず採用できない。なお実行未遂の場合において中止未遂が成立するためには、犯人が結果の発生を阻止する積極的行為をなすことを要するものと解すべきところ、本件の場合においては、判示犯行後、被告人は被害者小林絹子に対し、同人の死の結果の発生を阻止する何等の積極的行為をとらなかつたことは証人小林絹子の証言及び被告人の第三回公判期日における当公廷の供述により明らかであつて、この点から観るも本件犯行を中止未遂と認めることはできない。本件犯行は判示の如く障礙未遂と認定するを相当とする。
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法第二〇三条、第一九九条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、右刑の範囲内で被告人を懲役参年に処し、なお被告人はまだ年も若く、前科もなく、また、被害者との間では被害弁償も済み、示談も成立しているので、これらの情状を考慮して、刑の執行を猶予するのを相当と認め、刑法第二五条第一項第一号に従い五年間右刑の執行を猶予する。然し、被告人の従前の行状及びその両親の指導能力の不足等よりみて、第三者による指導監督の必要があると認められるので、同法第二五条の二第一項により右執行猶予期間中保護観察に付する。領置にかかる肉切庖丁一挺(昭和三二年領第一一四号の五)は本件犯行に供したもので、被告人以外の者に属しないから、同法第一九条第一項第二号前段第二項に従い、これを没収する。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 山口恒夫 小木曾競 森岡茂)